徳川家康(1542-1616)は安土・桃山時代の武将です。江戸幕府を開き、戦国時代を終わらせた天下人です。
彼の統治後、日本は約250年間、大規模な戦乱のない時代を迎えられました。
織田信長、豊臣秀吉に続く三英傑の一人でもあり、最終的な勝利者ですが日本での人気はいま一つと言わざるを得ません。
家康が不人気の理由を、イラストを交えて紹介します。
徳川家康ってどんな人? ウソとホントの実像に迫る
鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス。
家康を表した句としてあまりにも有名なものですが、家康が言ったわけでも、同時代人の評でもありません。
江戸時代、それも後期に書かれた随筆『甲子夜話(かっしやわ)』です。
信長、秀吉という先駆者の後に続いて、忍耐を重ねたという家康のイメージをよく表した句ですよね。
私たちが何となく知っている家康像にもピッタリなので、広まったのではないでしょうか。
同様な例として、日光東照宮などに保管されている家康の遺訓と呼ばれる「神君御遺訓」での有名な一説、
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
徳川美術館の館長・徳川義宣氏の研究によれば、水戸黄門でおなじみの水戸藩主・徳川光圀の「人のいましめ」という一文がもとになっているそうです。
これがあまりにも家康のイメージと重なったので、遺言として後世に伝わったのではないかと言われています。
この2つの有名なエピソードが「史実」ではなかったと言っても、実在の家康像が180度違うとは考えにくいのではないでしょうか。
人物評とは面白いもので、本人の実像よりも本人らしいエピソードが伝わり、後世に残りやすい傾向があります。
史料や史跡から、何となく人となりが伝わるような部分も少なくないのではないでしょうか。
400年前の人物ではありますが、そのような視点で考えてみると、徳川家康のおおよその人物像がつかめるのではと思います。
当時の平均寿命を考えても、15年も豊臣政権を存続させたのですから気の長い方でしょう。
当初は豊臣家と共存する意思があったのかは分かりませんけれども。
徳川家康の幼少時代
不遇な生まれと幼少期の人質時代
家康は1542年三河の国(愛知県東部)岡崎城に生まれました。
幼名は竹千代。当時の姓は松平です。土豪と呼ばれる地方豪族の生まれでした。
父の松平広忠は17歳。母の於大(おだい)の方は15歳という若い夫婦の嫡男です。
この頃の松平家は大変な状況でした。
家康の祖父の清康は織田信秀(信長の父)と交戦中に部下に殺され、広忠は今川家の保護を受けていました。
そんな中で生まれた竹千代(家康)ですが、3歳の時に母の兄が織田についたため離縁され、母親とは離れ離れにならざるを得ませんでした。
さらに6歳の時からは今川義元の人質になるために駿府(現・静岡市)に送られますが、道中で義母の父の裏切りに遭い、織田信秀の元に人質として送られてしまいます。
尾張の人質時代に実父の広忠は家臣の謀叛により殺害されます。
竹千代は松平家の嫡男だったので、
今川義元の仲介により織田家と人質交換が行われ、竹千代は駿府に移されました。
ここで竹千代は元服して元信と名乗り(数年後には元康と改名)、今川義元の姪で今川家の重臣、関口親永の娘・瀬名(築山殿〈つきやまどの〉)を娶りました。
今川人質時代に、戦国武将では珍しく読書家で学問好きの家康の基礎があるのではないでしょうか。
今川家に厚遇された元康(家康)ではありますが、彼の家臣となる三河武士たちの扱いは過酷なものであったと言います。
合戦では捨てゴマのように扱われたり、恩賞も微々たるものでした。
それでも彼らは、松平家の頭領である元康(家康)の独立の日を信じて、支え続けていました。
後に天下に名を轟かせる徳川四天王や徳川十六神将も三河武士出身者です。
そんな元康に、人生最大の転機と危機が訪れます。
家康のターニングポイント「桶狭間の戦い」と「三河の国・一向一揆」を越えて
1560年(永禄3年)、歴史上名高い桶狭間の戦いで、圧倒的な戦力差を奇襲によって覆した(最近の説では戦力差も奇襲もなかった説あり)
少数の織田信長の軍勢が今川義元を討ち取り、天下統一への第一歩となった歴史上の転換点です。
織田信長については以下の記事をご覧ください。
家康はこのとき18歳、桶狭間の戦いでは先鋒を任され、前哨戦となった大高城に「食料搬入」を行った後、休息中でした。
義元が討たれた一報を聞き、手勢18人で大高城から松平家の菩提寺である大樹寺まで撤退。
そこで自害しようとしたところ、住職の登誉天室(とうよ・てんしつ)上人に諭されて思いとどまり、岡崎城にたどり着いたと言います。
そして今川家からの自立を明確にしました。
この後、今川家と断交して織田信長と同盟を結んだ、いわゆる「清洲同盟」はよく知られています。
もっとも、最近の定説では桶狭間の戦いの後、同盟はなかったとも言われています。
同盟の有無はさておき、戦国で唯一、双方共に裏切らなかった関係なのは確かなことです。
そして義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から名を改めた家康は、
以降信長が本能寺に倒れるまで20年もの間 一度も敵対しませんでした。
単純に利害関係の一致かもしれませんが、戦国の世ではきわめて稀なことではありました。
三河の一向一揆(家康三大危難のひとつ)
1563年家康21歳の時。
本拠地・三河で大規模な一向一揆が起こりました。
仏教の一つ・浄土真宗(一向宗)が、家康に反対する武家と結びついて起こした反乱です。
この中には、松平家を支えた三河武士たちも含まれていました。
これから、という時に三河武士最大の分裂が起きてしまいました。
一向宗の宗教指導者は三河から出ていかざるを得ませんでしたが、犯人に加わった者たちは罪に問われることもなかったため、
家康に忠誠を尽くすことになりました。
三国志の記事ですが、こちらも参考までに。
話を家康に戻します。
三河武士の心をガッチリとつかんで、盤石な家臣団を築けたことが、家康を最終的な天下人にした要因の一つでしょう。
不遇な少年~青年期を過ごした家康ですが、この時期に学んで得たものは少なくないはずです。
一向一揆との戦いが後の政争や江戸幕府の宗教政策に影響したものは間違いないでしょう。
また、敵対勢力の吸収のやり方は後の武田家の家臣団を井伊の赤備えとして活用したことからも、
家康の人材活用術が垣間見られるような気がします。
織田軍と共に戦いに明け暮れる
家康は信長とともに1570年(永禄13年)の対朝倉義景との撤退戦・金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)を戦います。
浅井長政の裏切りにあって信長の大ピンチを、秀吉と共に殿(しんがり)をつとめてしのぎます。
体勢を立て直した信長は同年、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に大打撃を与えます。
徳川家康も参戦、活躍しました。
特筆すべきは一番手を切りたいと信長に陣立てを変更させるなど、荒々しい一面を見せています。
三方が原の敗戦の謎(家康三大危難の二つ目)
1573年。武田信玄が織田信長を包囲するために上洛戦途上、三方ヶ原の戦で大敗。
家康は30歳の時でした。
武田の軍勢およそ3万人。
これに対する徳川の軍勢は1万1000人。
数の上でも不利な戦いは、慎重な家康のイメージらしからぬ不可解な点が見られます。
当初は浜松城に籠城するつもりであった家康が、浜松を素通りされたことに怒り、打って出たという点です。
当時の常識で言えば、侵攻途中の城は落とすか少なくとも交戦はするもの。
素通りは侮辱に当たりました。
攻城戦は時間がかかるので、徳川軍を野戦に誘い込む武田信玄の挑発とも取れますが、家康は打って出たわけです。
もちろんこの行動には異論・諸説あります。
戦国時代の他の戦でも言えることではありますが、
三方ヶ原の戦いがどこで行われたのかも含めて、詳しいことはよく分かっていません。
家康は命からがらで逃げた自身のふがいない姿を絵師に描かせ、いましめとするために生涯座右に置いたという「徳川家康三方ヶ原戦役画像」。
憔悴しきった家康の表情をとらえた通称「しかみ像」のエピソードはよく知られています。
自虐的な肖像画・しかみ像は嫁入り道具?
ところが2015年(平成27年)に徳川美術館で行われた学芸員の原史彦氏の講演によって、これまで伝えられてきた話は、
後世の作り話である可能性が指摘されました。
江戸時代中期の尾張徳川家の名君でもあった9代の徳川宗睦(とくがわむねちか)が養子に迎えた徳川治行の妻の
紀伊徳川家から嫁いだ従姫(よりひめ)の嫁入り道具の一つであったとのことです。
当時は「家康の肖像画」とのみ伝えられていたそうです。
しかしあまりにも異様な容貌だったために、話に尾ひれがついて伝えられていきました。
昭和11年1月、尾張徳川家19代目当主で徳川美術館を開いた徳川義親氏は地元の新聞社の取材で、尾張家初代の徳川義直が父・家康の苦難を忘れないように描かせたと説明していたのです。義親氏流のリップサービスで、徳川美術館の宣伝を兼ねて・・・の話が、いつのまにか「家康が描かせた」に変化したというのです。
引用元:静岡・浜松・伊豆情報局より 家康の『しかみ像』に新説が! 家康が描かせたはウソだった!
本能寺の変と伊賀越えの逃避行(家康三大危難の三つ目)
1582年(天正10年)3月に武田家を打ち破った信長は家康の長年の功績をたたえ、駿河の国を与えられます。
同年5月に安土城に招かれた家康は、堺を遊覧中の6月2日、京で起きた本能寺の変を知ることになります。
家康のお供は、本多忠勝・服部半蔵。
そして武田氏を裏切って織田についた穴山梅雪を含めてもわずか30人。
明智光秀は信長軍の残党狩りのために各地に兵を放っていたため、きわめて危険な状態に陥りました。
状況がどう転ぶか分からない中、ほとんど落ち武者同然で脱出しなければなりません。
半ば諦めかけた家康に、最短ルートで本拠地・三河を目指す「伊賀越え」を提案したのは服部半蔵でした。
家康の一行も、途中、地侍や土民に襲われましたが、どうにか難を逃れました。
九死に一生を得た家康ですが、別ルートを行った穴山梅雪は殺されてしまいました。
家康はいったんは信長の仇打ちのため、光秀の討伐に向かうものの、秀吉が勝利をおさめたと知ると引き返します。
天正壬午の乱
信長の急死によって旧武田領であった甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)は大混乱に陥りました。
領土拡大のチャンスと見た北条氏が織田政権から離反。
織田軍として関東を治める予定だった滝川一益は諸将を呼んで、主君の死を伝えました。
静観するもの、裏切るもの、反応はそれぞれでしたが、各地で争乱が起こり始めていました。
北条勢は50000の軍勢を率いて中山道(国道17号)線へ侵攻。
迎え撃つのは滝川一益と上州勢。
戦国時代で関東でもっとも大きな野戦として知られる神流川の戦い(かんながわのたたかい)が起こりました。
この戦いの後、織田軍として関東を治める予定だった滝川一益は伊勢へ引き上げてしまいます。
草刈り場となった旧武田領を巡り、徳川家康・上杉景勝・北条氏直らが熾烈な争奪戦を繰り広げました。
結果的には家康が甲斐・信濃を確保し、織田政権の承認を得たことで五カ国(150万石)を領有する大大名となります。
北条氏とも縁戚・同盟関係を結び、関東で確固たる地位を築きました。
この時の調停役の一人が織田信雄であり、この縁は小牧・長久手の戦いの遠因となります。
小牧・長久手の戦い
信長の死後、羽柴秀吉は清州会議で織田政権の実権を握ります。
そして信長の次男の織田信雄と結んで、ライバル柴田勝家を1583年(天正11年)に賤ヶ岳の戦いで撃破しました。
しかし秀吉が信長の孫であった・三法師(織田秀信)を擁立したことで対立。
信雄は家康に接近し、同盟関係を結びました。
信雄が秀吉派の家老を粛清したことで対立は決定的なものになり、合戦に至りました。
1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いは起こります。
数の上では圧倒的に有利だった秀吉軍ですが、この戦い以降「野戦の達人」と恐れられた家康の巧みな用兵により、翻弄されます。
池田恒興、森長可といった織田家中でも名だたる重臣・武人が討ち取られました。
戦局は、家康の勝利に傾きつつありました。
ところが秀吉もただでは起きません。
敵の総大将だった織田信雄と交渉を進め、戦自体を止めさせてしまいます。
大義名分を失った家康も兵を引くしかありませんでした。
「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」
頼 山陽(らい さんよう) 『日本外史』(にほんがいし)より引用
『日本外史』幕末から明治にかけてもっとも読まれた歴史書です。その著者である頼 山陽は江戸後期の歴史家ですが、このように述べていました。
以降の家康と秀吉は表立って対立するわけでもない、いわゆる冷戦状態にありました。
この頃、家康の人質時代から苦楽を共にした腹心の部下・石川 数正(いしかわ かずまさ)が謎の出奔し、秀吉の部下になるという事件が起きました。
徳川の軍事機密にも通じた部下の逃亡に家康は大きく動揺し、軍制の改正を余儀なくされたと言われています。
豊臣家臣従と江戸に移封
家康にとってさらに状況が悪化したのは1586年(天正14年)
臣従要求を拒み続けた家康に対し秀吉は実の妹(旭姫)を正室として差し出し、さらには生母(大政所)を岡崎城に送り、上洛を求めました。
同年10月・大坂城に入った家康は、諸侯の前で秀吉に忠誠を誓い、軍門に下りました。
そして翌月、京で正三位に叙されます。武士ではなく、公家です。それも相当に高い身分です。
もっとも従一位関白は秀吉ですから、ランクとすれば下になりますが、それでも官位は魅力的でした。
この時期、家康は藤原から源氏に改姓しています。
これは将来的に「征夷大将軍」の地位を視野に入れたと言えるかもしれません。
家康の愛読書は鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』でした。
当時の戦国大名自らが歴史書を学ぶという例はきわめて珍しいことです。
家康の天下取りのビジョンは、少なくともこの段階では具体的に見えていたのだと思われます。
しかし、天下は豊臣秀吉のものに傾きつつありました。
1590年、20万人もの大軍を動員して小田原城を攻めて後北条氏は滅ぼしました。
秀吉の部下としてこの戦いに参戦した家康は、恩賞として関東を賜ります。
ところが、です。
本拠地の三河を含めた、駿河、遠江、甲斐、信濃の五カ国は没収となりました。
代わりに与えられたのが関八州と呼ばれる広大な関東平野に広がる荒れた土地でした。
領地としては増えましたが、政治の中心だった京都や大阪からは遠く離れた地への移封です。
家康はめげることなく土地の整備や治水工事など、江戸の町づくりを進めていきました。
川の流れを変え、谷を埋め立て、整地する。
現在の東京は、徳川家康らの開発の土台に成り立っているのは興味深いところです。
関ケ原の合戦とその後
1598年(慶長3年)天下人だった秀吉が死去すると、残された後継者は幼い秀頼となりました。
秀吉は生前、五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景)と
五奉行(浅野長政、前田玄以・石田三成・長束正家・増田長盛)を残し、豊臣家の安泰を図ろうとしました。
そんな中で家康は生前の秀吉に「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」とまで遺言され五大老の筆頭格でした。
しかし当時(1595年以来)禁止されていた大名同士の婚姻を行い、伊達政宗などと縁戚関係を結びました。
石田三成らはこれが面白くはありません。
これ以降、豊臣恩顧の武将たちと家康派の冷戦が続きながら、時代は関ケ原の合戦へとなだれ込んでいきます。
家康ら東軍は関ケ原の合戦を制して江戸に幕府を開くことになります。
これ以降、世紀のインネン付けで知られる方広寺鐘銘事件まで14年も豊臣家と天下を二分していました。
大坂冬の陣、夏の陣で豊臣家を滅亡させた家康は250年の長きに渡って江戸幕府を存続させることに成功します。
徳川家康の不人気の理由を掘り下げてみる
家康と言えば、健康オタクと呼んでいいくらいに食事に気を使ったり、自ら薬を調合するなど相当の知識を持ち合わせていました。
結果的に、75歳という(当時としては)長命が家康の天下人としての最大の武器になったことは間違いないでしょう。
実は海外での評価が高い家康
もちろん徳川家康は世界史との接点を持ちませんから、ごく一部の海外勢の評価ということをご承知おきください。
いわゆる三英傑のうちでも、日本とは逆に家康はもっとも評価されています。
むすび
いかがでしたか。
徳川家康の長い生涯をできるだけ簡潔にまとめてみました。
思いがけず長い記事になってしまいましたが、書いていてなるほど天下人の器だなと思うところが多かったです。
三英傑ではもっとも地味で、不人気とも言われる家康ではありますが、とても懐の深い人物だと改めて思いました。