平安時代末期から戦国時代を武将として生き、江戸時代に取りつぶし(改易)にあった「里見氏」について、その歴史を簡単に紹介します。
武将として20代続いた里見氏は、偶然にもちょうど10代ずつで区切りを迎えます。
父祖の地で10代を過ごし、戦に敗れて房総半島へ移ってから、再び10代を経たあと、断絶の憂き目に遭うのです。
今回はまず、父祖の地で過ごした最初の10代290年間のうち、里見氏の発祥と、源頼朝の側近として活躍した二代・義成(よしなり)までを紹介します。
父祖の地は〝南総〟ではない
里見氏といえば、「南総里見八犬伝」という江戸時代に書かれたフィクションによって知られています。
この物語に出てくる里見氏のモデルは、千葉県の房総半島にいた戦国武将の里見氏です。
では、里見氏にとっての父祖の地とは、安房国(あわのくに)なのでしょうか?
里見氏の故郷は、意外にも房総半島ではありません。
上野国(こうずけのくに=群馬県)です。
群馬県の西部に、昭和30年(1955年)まで、「里見村」という村がありました。
明治時代、昔からあった上里見、中里見、下里見などが合併してできた村です。
その後、さらに数度の合併を経て、現在は高崎市の一部となっています。
同村が里見氏発祥の地で、古くは里見郷(さとみのさと)と呼ばれていました。
伊香保温泉などで有名な榛名山のふもとにあり、今は梨の産地として「里見梨」などを生産しています。
以下、『新田氏支流・里見氏』(里見義成著、あさを社、平成元年刊)などをもとに、簡単に紹介します。
清和源氏の一流
里見氏の発祥は、平安時代末期に遡ります。
初代・里見義俊(さとみよしとし)は、源義重(みなもとのよししげ=新田義重)の長子として、保元3年(1137年)に生まれました。
場所はおそらく、新田荘(にったのしょう=現在の群馬県太田市および桐生市、伊勢崎市、みどり市の一部と埼玉県深谷市の一部)の辺りだと思われます。
父の義重は清和源氏の流れで、武家の棟梁として名を馳せた八幡太郎義家(源義家)の孫です。
また、義重は新田氏の初代であり、のちの室町時代に足利将軍家として天下人となった足利氏の初代・源義康とは兄弟の関係にあります。
新田氏の長子が分家し、里見氏が誕生
里見氏の初代・義俊は、新田義重の長子として生まれ、新田太郎と名乗っていました。
ところが、母が正室ではなかったので、新田宗家を継ぐことができず、分家しました。
母は豊島下野権守源親弘の娘といわれており、里見郷へ移るときに母を伴っていったといいます。
義俊が里見郷その他の領地を与えられて分家独立したのは16、17歳のころ(1153、54年)だと、同書の著者はいいます。
その理由は、二代目の義成が保元2年(1157年)に里見郷で生まれているからです。
この時代、義俊が20歳前後であったと思われる1156年、中央では何が起こっていたかというと、朝廷では皇位継承問題などから抗争となり、いわゆる「保元の乱」が起こりました。
一族の足利氏はこの乱で戦功を立てましたが、新田氏(と里見氏)は出陣しませんでした。
また、1160年には、のちに鎌倉幕府を開く源頼朝が、まだ若年だったために一命を助けられ伊豆へ流されたエピソードで知られる「平治の乱」が起きましたが、里見氏は出陣していません。
里見氏が武将として名を上げるのは、頼朝に仕えた二代目の義成の時代です。
頼朝の側近として活躍した二代目
保元2年(1157年)、里見郷で生まれた二代・義成は、父を継いで里見太郎・里見冠者を名乗ります。
そして22歳のころ、京都にのぼり、「大番役」として皇居や洛内外の警備に当たります。
義成はこのころ、権勢をふるっていた平清盛をはじめ、平氏に仕えていました。
ところが治承4年(1180年)8月、源頼朝が伊豆で挙兵すると、いち早く京都から引き返し、馳せ参じます。
鎌倉の頼朝に仕え、伊賀守、従五位下に任じられ、頼朝の側近となります。
またこの時代、遊女に関する問題が起こらないよう管理・取り締まる機関「遊君別当(ゆうくんべっとう=公娼制度の先駆けのようなもの)」が置かれ、この長官を務めました。
義成は、「幕下将軍家の寵士」(出典・吾妻鏡)として、常に頼朝と行動を供にしていました。
数々の公式行事に参加し、ほとんど領国の里見郷には帰らなかったそうです。
文暦元年(1234年)、78歳でその生涯を終えました。
次回は、鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ武将、新田義貞が里見氏からの養子ではないかという説を紹介します。