「日本のテレビドラマはつまらない」と言う人は少なくありません。
当記事は、そう思う人たちの理由を、なるべく客観的に分析しました。
特定のドラマを批判する意図はありません。
また、現場で創意工夫している関係者を侮辱する意図もありません。
言葉は選んだつもりですが、辛辣な表現を不快に思う方もおられるかも知れません。
なぜ日本のテレビドラマはつまらないのか?
まず、ドラマ視聴者層という視点から考えてみましょう。
どんな人が普段ドラマを見るのか?
ドラマのファンというよりも、俳優・女優のファンがドラマを見るのではないでしょうか。
私のようなオタクが多くのテレビドラマを「つまらない」と感じる場合は大きく2つのケースに分けられます。
- 内容が陳腐だと感じる。
- 画面が安っぽかったり、俳優のオーバーな演技やBGMにしらけてしまう。
もちろん、現場ではカツカツの予算の中で、それぞれのプロフェッショナルが「良い作品を作ろう!」と試行錯誤しています。
その情熱と、現場の創意工夫は決して否定されるべきものではありません。
ただスタッフやキャストの「情熱」を否定するような「製作上の慣例」や「芸能事務所の力関係」が働いているであろうことは容易に想像できます。
たぶんこの二つが、日本のドラマを絶望的につまらなくさせているのではないかと。
テレビが面白くない構造的な弱点
もちろん面白いドラマはあるし、その中のごく一部には傑作と呼ぶにふさわしい作品もあります。
ただ、他のメディア(演劇、映画、マンガ、小説、人形劇、特撮、TVゲーム等)と比べて、圧倒的に「面白い作品」が少ないです。
※個人の感想です。
これはテレビを見る人たちが、日本人の大多数であることに起因しています。
テレビを見ている、と書きましたが…
実際には惰性でテレビをつけている人たちも含まれます。
真剣に見てるかどうかも分からない日本人の最大公約数。
そうした、モヤっとした大きなターゲットに向けて制作しているのがテレビ番組の宿命です。
マニア向けの題材を選んだとしても、深く描くためには余程の力量と局側やスポンサー企業の理解が必要です。
みんなが同じ価値観を共有していた昭和の時代ならともかく、これだけ価値観が多様化して趣味も細分化した時代です。
不特定多数が「面白い!」という作品は今後もますます作りづらいでしょう。
いつも同じようなストーリー展開
日本のテレビドラマでおなじみなのが、何となく同じようなストーリー展開でしょう。
医療ドラマ
刑事もの(サスペンス)
リーガルドラマ(弁護士モノ)
世相を反映する職業モノ
ホームドラマ
恋愛もの(×上記のジャンル)
不倫モノ
これらのジャンルで、マンガ原作だったりすれば企画が通りやすいのかもしれません。
キャストに旬の役者(+芸能事務所が売り出したい人材)を充てれば、ある程度の数字は狙える。
それはまあ良いでしょう。
問題なのは、ジャンルごとに大体似たようなストーリーが予測できてしまうことです。
・主人公は組織のはみだし者か「強い女性」もしくはひたむきに夢を追う女性。
・ヒロインは(病気や家庭環境などの)問題を抱えている。もしくは迷える女子。
・ライバルはエリートだったり主人公よりも恵まれた環境。
・現場と管理職は常に対立していて(物語上の)正義は現場側。
・主人公は屋台のおでん屋や銭湯など庶民的な趣味を持つ。
・主要キャラの亡くなるシーンなどがクライマックス。
・対立してた部署が一致団結してトラブルに立ち向かう。
私もそれほどテレビドラマは見ているわけではないですが、このようなフォーマットが多いのではないでしょうか。
90年代のドラマから、あまり変化のないような作品が多く見られます。
90年代に一世を風靡していた脚本家と言えば『101回目のプロポーズ』(91年)『高校教師』(93年)野島伸司氏が知られています。
野島伸司氏と言えば「過激」な作風が、当時から賛否両論ありつつも、社会現象を巻き起こすヒットメーカーとして知られていました。。
しかし00年代以降はスポンサー企業の「コンプライアンス重視」の理念に触れ、少なくとも地上波では苦しい戦いを強いられているのではないのでしょうか。
三谷幸喜氏に代表される巨匠を除いて、テレビドラマ脚本家の苦境は続いています。
これまで快進撃を続けてきた宮藤官九郎氏も、大河ドラマ『いだてん』の視聴率はふるいませんでした。
個人的には内容のある良いドラマだと思っていますけれど。
私が子供の頃から言われていますが、テレビ番組の評価は内容よりも「視聴率」という限定的な数字で決まるのでしょう。
定番や王道を否定する気は全くありませんが、あまりにもひねりのないパターンにうんざりする視聴者も少なくないでしょう。
こんな状況が数十年も続いているにも関わらず、一向に変化の兆しさえ見せないのが日本のテレビドラマの現状です。
19年1月から日本テレビ系で放映された『3年A組 -今から皆さんは、人質です-』は生徒を人質にとって立てこもる教師という物語設定です
教師モノ+サスペンス要素のあるドラマは設定が斬新だったのか、比較的高視聴率を獲得しました。
ネット上では特に否定的な意見が多数を占めています。
なぜ、このような展開になったのかは分かりませんが、テレビ局の上層部などにはネット文化を忌み嫌う人たちがいるのでしょう。
彼らの多くは80~90年代のバラエティ・ドラマの成功体験から逃れられないのかもしれません。
根っこは何一つ変わってはいません。
学園ドラマはどのような奇抜な設定(ごくせん等)だとしても、最後は何故か生徒たちは一致団結して先生を支持します。
『3年B組金八先生』だろうと『スクールウォーズ』だろうと『GTO』だろうと。
※例外があったら教えてください。
多様性が言われる時代に、数十人もの生徒が一様に先生の価値観を信じ込む様子は不自然に思えます。
キレのない演出(カット割りが単調。構図がテンプレ)
日本のテレビドラマ、特にホームドラマの画面を「明るすぎる」と感じる人は多いでしょう。
不自然なほど全体にピントが合っていて部屋の隅々まで光が当たっています。
蛍光灯で全て照らされたような中でシリアスな場面が描かれても、安っぽい印象しか残らないのではないでしょうか。
また、画面構成やレイアウトなども「またコレか」というような画面構成がよく見られます。
どうもこのシーンにはコレといった型(テンプレート)があるようです。
しかし彼らとて映像のプロフェッショナルです。
そんなことは百も承知なはずです。
テレビ局とは何の縁もないので想像でしか書けませんが、おそらく…
「視聴者ファースト」
「テレビ局側による分かりやすさへの追及」
この辺りの縛りがあるのではと推測されます。
テレビ視聴者は斬新なアイデアや先鋭的な映像表現を嫌う傾向があります。
「ほどほどがベスト」
そんな認識を撮影スタッフは持っているのではないでしょうか。
しかし娯楽は多様化しています。
海外ドラマなど、質の高い作品が見たいときに好きなだけ見られる時代でもあります。
日本のテレビドラマしか見ない人に照準を合わせた演出では、目の肥えた観客を納得させるのは難しいでしょう。
『勇者ヨシヒコ』シリーズでおなじみの福田雄一氏の一連の作品は、チープなのを逆手にとって面白い作品に昇華させています。
そしてこれがちゃんと評価されていることに、ある種の救いを感じるのは私だけじゃないでしょう
ひどい脚本
ひどい脚本は、何もテレビドラマに限っての話ではありません。
マンガやアニメやゲームなど、日本が誇る優良コンテンツでも脚本を軽視する傾向はあります。
もちろんすばらしいストーリーを展開している名作もたくさんあります。
ただ、日本の場合はキャラクターの魅力が最優先されるため、面白いストーリーだとしてもキャラが弱いとヒットは難しいです。
逆にキャラさえ立っていればストーリーなんて破たんしていても大ヒットします。
必然的にキャラを中心にした脚本づくりがなされることになります。
最大公約数に向けて「無難」に作らなければならないはずですが、テレビドラマの主人公は結構すべっていたり空回りしているキャラ立てが多いでしょう。
女性向けに特化した内容だと、主役は薄味で悪役がとにかく嫌な奴みたいな極端さがあります。
これに加え日本のエンタメ作品全般の制作環境が挙げられると思います。
おそらく全ての制作過程の中で、脚本に費やしている時間が圧倒的に短いはずです。
ちなみにマンガの世界ですと週刊連載でネームに費やす時間は平均1~2日です。
作画・仕上げ時間は5日。
月刊だと制作ペースは人それぞれになるので、一概には言えません。
テレビドラマの脚本執筆時間は門外漢には分かりませんけれども。
かなり速いペースで〆切に追い込まれて書いているのは間違いないのではないでしょうか。
本来であれば、じっくり練らなければならない部分を大急ぎで書いているので、当然精度に欠ける部分は出てくるでしょう。
それか俳優のアドリブなのか、たまに整合性が取れない場面も見受けられます。
日本の俳優は演技が「下手」なのか?
口さがないネット上では「学芸会レベル」ともささやかれる日本人俳優の「演技力」
オーバーアクションや、怒鳴るように話したり、顔芸のような表情の芝居を思い浮かぶ人もいるでしょう。
テレビドラマなのに舞台俳優のような話し方で不自然という意見もあります。
普段私たちはあんな大声で話したりしませんよね。
リアリティを重んじるなら、抑えた演技になるのは基本です。
具体的な作品名は申しませんが
「もう頭に来た! おれは怒ったぞ」
シリアスなシーンで、このような説明セリフが使われることも未だにあります。
しかも過剰演技で!
刑事ドラマなどでは、不自然に感じるほど署内をうろうろする刑事役の俳優。
そういうキャラ付けなら納得なんですが、みなさん一様にうろうろするのは気のせいでしょうか?
あれは「忙しいシーン」の記号なのか、画面に動きを持たせるための演出なのか、よくわかりません。
一方、同じ役者さんでも映画に出れば抑えた芝居をキチンとしている場合も多く見られます。
腕利きの監督の元では、アイドルやモデル出身の若手俳優が堂々と演技派俳優と渡り合う姿が多く見られます。
この「違い」は何でしょう?
俳優の演技が、「表現」のレベルまで達しているか否かに尽きると思います。
役者だけの責任ではありません。
構想、脚本、役作り、演出。これらの土台の上に俳優の演技は成り立っています。
しかしテレビドラマのメイン視聴者層は出演俳優のファンです。
「大好きな○○が、今度はどんな役で出るんだろう?」
視聴者は俳優や女優のファンなので、内容以前にカッコいい彼らの姿が見たいのです。
後はかじ取り役の監督に登場人物を掘り下げて演出する腕があるかどうかでしょう。
監督のイメージが明確であれば、下手な役者でも「それっぽい感じ」を出すだけで表現として観客の心に届きます。
逆に監督のイメージが明確でない場合、上手い役者の「役作り」が作品の調和を乱すこともあります。
指揮者のいないオーケストラに例えると分かりやすいでしょうか。
場合によっては製作総指揮者やプロデューサーの意見が大きい例もありますが、現場の指揮官は監督です。
しかしテレビドラマでスタッフ欄に「監督」の二文字があることは稀です。
大抵は「演出」とか「作」ですよね。
各話ごとに違っていたりもします。
責任者の肩書がぼやかされているので、権限が弱いのかもしれません。
役者の側からアイデアが出たり、場合によっては思いもよらないところから「演技指導」が入るのかもしれません。
なぜ、多くのテレビドラマでは俳優の演技が下手に見えるのでしょう?
プロの現場なのに、プロじゃない人の「演技指導」が入っているのではないかと邪推します。
この場合のプロとは、演出のプロの事です。
あくまでも個人的な想像なので、現場ではプロフェッショナルな演出が行われていると信じたいですが。
そして役作りに関する時間も、映画や海外ドラマや舞台などと比べて短期間で「役を自分のもの」にしなければなりません。
入念に役作りをする人もいれば、直感的に役をつかむ人もいるでしょう。
誰とは申しませんが、失礼ながら役作りについて全く意識されていない方もいるような。
私はひきこもりがちなので劇場で演劇を観賞しませんけれど、DVDなどで演劇を観ると脚本は面白いし芝居も面白い。
演劇作品はちゃんと役作りがなされていて「すごいなあ」と思います。
このような評をプロの役者さんにするのは失礼かもしれませんが。
日本の役者さんはちゃんとプロとしての演技ができていると思います。
インタビューなど見る限りは、皆ひたむきに取り組んでいると思います。
ただ、指揮系統がハッキリしてないから、演技が統一されてない印象があるかも知れません。
それとテレビドラマ的な「分かりやすい説明演出」が時代と合わなくなってるから、下手に見えるのかなとも思います。
芸能事務所の推したいタレント優先のキャスティング
この話は、私の昔の友人がとある映画製作会社に勤務していたのでよく聞いていました。
具体的に書いていいものか迷うところですが、何年も前から役者さんのスケジュールを抑えるのは基本みたいです。
バーター(交換条件)と呼ばれる、お目当ての俳優の出演と引き換えに事務所が推す役者を出演させる交渉なども行われるようです。
テレビドラマがどうキャスティングされるのかは分かりませんが、主役級は当然そうでしょう。
これに加え、最近では芸能事務所のパワーバランスが非常に大きくなっているとの話を聞きます。
芸能事務所もたくさんありますから、一概にこうだと言えません。
テレビ関係者でもありませんから憶測で言うくらいしかないですけれども。
レコード会社とのタイアップも、作品ありきではなく「主題歌を○○に歌わせる」ことが先に来ています。
たとえばDという事務所に所属するイケメン俳優①さんが、脚本内にある10分の見せ場のシーンを熱演したとします。
するとAという力の強い事務所に所属する売り出し中の新人②さんの担当者が「②の見せ場も増やして」という可能性は常にあります。
直接現場に介入しなくとも、お酒の席でも世間話でも冗談でも言ったとしましょう。
そうすると制作スタッフは真面目に「②の出番を増やすことを」検討するかもしれません。
②の関係者かファンであれば「②の見せ場が増えたら」大満足でしょうけれども、ドラマの時間は限られているのでその分①や誰かがワリを食うわけです。
これ以外にも、芸能事務所サイドから「タレントのイメージを下げるシーンはNG!」などのお達しはあるそうです。
芸能事務所としてみれば、彼らは「商品」ですから、イメージを下げられては困る。
企業としては至極まっとうな理屈です。
作り手としては「は?」ですけどね。
でも人気者を使わないと数字が取れない。
数字が取れないスタッフには仕事が来ません。
制作スタッフは様々な縛りを越えてドラマを完成させるのですからある意味プロと言えるのでしょうね。
だから私たち「タレントのファンでもない視聴者」が「つまらない」と言うのは失礼千万かもしれません。
皮肉でも何でもなくて、そのような厳しい制作環境でも良い作品を作り上げるドラマ制作スタッフ、キャストには本当に頭が下がります。
予算不足?
ドラマ不況の影響もあり、ここ10年ほどでテレビ局のドラマ制作費は減少傾向と言われています。
予算がないから面白い作品が作れない?
しかしバブル期やドラマ全盛期の90年代、予算がふんだんに使えた時代のドラマで、現在でも見るに堪える作品がどれほどあるでしょう。
ドラマ制作費の約4割がキャストへの出演料だと言われています。
一説には大河ドラマなどで時代ものをやる場合、一話当たり1億円の予算がつくとか。
たとえ現代劇でもロケが多かったり、セットが凝っている現場は大変だと思います。
逆に舞台がある程度定まっている『科捜研の女』などのシリーズは、比較的コストパフォーマンスが良いのではないでしょうか。
お金をかけた挙句、低視聴率ではスポンサーからの評価も下がってしまいます。
なぜテレビ局とスポンサー企業が「視聴率」にこだわるのかは後日、別記事で解説します。
クレームを恐れて無難な描写
これは当節の流れで止むないことだとは思います。
私は「過激な表現」をそこまで称賛しないタイプの人間です。
「過激だから面白い」とも思いません。
一方、行き過ぎたポリティカル・コネクトレスは確実に社会を窮屈にするとは思っています。
ただ社会に生かされている以上、アウトプットする表現に「弱者」への配慮は必要かなとは思います。
テレビのお笑い番組がやってきた「イジリ」の文化は確実にいじめの温床になってきたと思います。
私も含めて「バラエティのノリ」を学校でやられた被害者は全国にいるでしょう。
しかし矛盾するようですが、作り手の心は「絶対自由!」でなければダメだとは思います。
表現活動は「ドロドロして矛盾に満ちた何か」を、結晶化して受け手に届ける作業だと思います。
「作り手の心の中は無法地帯」で「どんな悪意もアリ」でないと面白い作品なんてできやしません。
その意味では、俗悪バラエティの制作者たちは正しいともいえる。
形にする際に表現手段に配慮すべきであって、作り手の「無法地帯」の部分は否定すべきではないと思います。
テレビはそうした製作者の矛盾と葛藤の「ドロドロした部分」の部分を根こそぎ否定して「無難」なものだけを選択します。
これでは面白いものなどできようはずがありません。
まとめ
現場ではスタッフ・キャスト達が絶対に面白いものを作ろうとして頑張っているはず。
なのに、俳優さんのファン以外はテレビドラマを楽しめないのは何故でしょう?
「製作上の慣例」や「芸能事務所の力関係」も含めて語ってきました。
単なる悪口にならないように、テレビドラマの傑作や良いところも交えながら。
考えてみればテレビドラマの制作者も気の毒な存在です。
昭和の時代は映画関係者(カツドウ屋)に「電気紙芝居」と見下され…
唯一の黄金時代がバブル全盛の80年代後期~00年代初頭までの20年間※
※この時期のテレビドラマ、およびテレビ文化は正直に申し上げて不快に思うくらいに思い上がっておりました。
そのツケが回ったのか、ネット普及以降は、一般人に「オワコン」と罵倒されています。
いや、現在でもテレビドラマを楽しんでる人はいます。
毎日のように「好きな俳優」を追いかけて熱心なファンがいるでしょう。
幸か不幸か、娯楽は多様化し、各ジャンルのファンたちは交わらない島宇宙の中に生息しています。
かつては価値観や流行の中心に君臨していたテレビドラマが、ガラパゴス化するとは!
当時を知る者として何とも言えない思いで締めくくりたいと思います。