この記事は『普通』という価値観について、「内向的な人間の目線」で書かれたものです。
『普通』な価値観を信じる人が読んだら、おそらく違和感を持つような内容になっているかと思います。
外交的な人にとっては「普通」なんて気にも留めない些細な言葉なのだと思います。
しかし内向的な人間にとっては、けっこう戸惑ってしまう概念なんですよね。
内向的な人間は『普通』という概念に戸惑う。
何をもって「普通」なんだ? 「基準」はあるのか? 等…
よく耳にする言葉だけに気になる人もいるのではないでしょうか。
自分なりに「普通」という概念を考察してみました。
これが「普通」という確かな基準は存在しません。
「普通」とは多くの人が何となく思っている「平均的なこと」や「想像の範囲内」を、その人の基準でぼんやりとまとめたものに過ぎません。
よく聞く言葉なのに、すごくあいまいな基準だと言えます。
もしあなたが誰かに対して「普通〇〇しないよね?」「普通にしてればいいのに」「フツー○○」等など…。
「普通」という価値観を強要されたら、あまり良い感じはしないのではないでしょうか?
SNS上でも溢れている普通という言葉。
親や教師、同僚や友人に言われ傷ついている人もいるかもしれません。
「普通」という言葉に縛られて息苦しい思いをしている人はいないでしょうか?
この記事はそんなあなたの心を少しでも楽にする一助になればと思います。
カウンセリングの専門家ではありませんが、漫画家の想像力を駆使して書きました。
キャラクターによる会話形式で、この問題に切り込んでみたいと思います。
普通について気になること
いまこれを読んでいるあなたは、「普通 基準」のような検索結果から、私の記事をクリックしてくれたのではないでしょうか?
この記事を書いている私も、読んでいるあなたも「普通」という価値観に疑問を持っているから接点が生まれたのだと思います。
そもそも「普通にしろ」なんて私は他人に対して使うべきではない言葉だと思っていますが、けっこう耳にする機会があります。
私ももちろん言われたことはあります。
「普通にできないの?」なんて言われて良い気持になる人はまず、いないと思います。
ミスを指摘する言葉だとしても、成長を促すつもりで言ったとしても適切な効果は期待できません。
しかしこの「普通」という言葉は便利です。意味が広すぎ、肯定にも否定にも使えるので使い方、意味の取り方によっては非常に厄介とも言えるでしょう。
80年代~2010年代まで、4つの時代から時空を超えて巡り合った『オカルト研究会』の4人のメンバーが、「普通」について、語り合いました。
『普通』の対義語・反対語としては『希少』なんていうキレイな言葉もありますが、一般的な視点では『変』『おかしい』などと、おおよそネガティブな意味で使われます。
もちろん犯罪や、他人に迷惑を及ぼすような行為は論外です。
自分と誰かを比べられて、「変」だとか「普通じゃない」と言うのって個人的には無責任な言い方だと思っています。
「アンタが言う普通の基準って何なんだよ? 何と比べてそう言ってるんだ?」
って思うことはありませんか?
絶対的な「普通の人」を考えてみる。
ここでちょっとした思考実験をしてみましょう。
たとえば36歳男性・地元中堅製造業勤務で年収約380万。既婚8年目で5歳の長男と3歳の長女がいます。妻は34歳の社会福祉士で年収320万。
家族全員中肉中背で日本人の平均的な容姿と一般的なファッション(ユニクロ含む)だとしましょう。
ざっくりと「普通」の30代既婚男性を設定してみました。
いかがでしょう?
「ハードルが高い」「いや低い」
人によってはツッコミどころがあるかと思いますが。
まあ大多数の人が何となく想像できて、普通だと納得できるラインを考えてみました。
しかし、完全無欠の普通の人でも「ワニ肉が好物」などという特殊な嗜好があれば、とたんに「変わった人」になってしまいます。
ワニ肉は通販だと約200gで500円~と送料もかかるのでちょっとエンゲル係数は高めですが、ネットで検索すれば普通に手に入る食用肉です。
しかし、鶏や牛、豚とは違って一般的ではないために「普通」のカテゴリから外れてしまうのではないでしょうか?
何が言いたいかというと、「普通」の概念は脆いということです。
確かに、リアリティとして考えたらワニ肉を食べる設定は極端でしょう。しかし、たとえばご主人が突然スマホゲームに毎月数万円を課金したり、奥さんが料理教室のイケメン講師にはまり込んで家庭崩壊、
その他、ある日突然アクシデントに見舞われて「普通」の生活は容易く崩壊します。
それでもなお、ある種の人が「普通」にこだわるのは何故でしょう?
普通になりたい人の心理
わたしたちは学校教育やマスメディアからの教育や情報、娯楽を通じて、矛盾に満ちた価値観を植え付けられます。
「個性が大事」VS「調和が大事」
「個性を伸ばそう」VS「空気を読もう」
「個性」は耳障りの良い建て前で、「調和」は本音の同調圧力です。
学生時代に髪の毛を染めたりピアスを開けたりしていた人たちが就職活動をするようになると、
「社会の一員としてふさわしい格好」をするようになります。
そして無事、就職するとその企業風土に沿った形でまた個性を出していくことになります。
集団の中で浮かないように、周囲を気にしながらバランスをとって生きていきます。
なぜなら…
多くの人と同じである、という心情はとても安心感があるからです!
人並みの生活は、未来も予測しやすく波風のない人生を送るための指針となるからです。
こうした「普通」が自然とできない、かなり無理をしないとできない人たちは悩みます。
そんな不安を人に見透かされて、「変わってるね」などと言われて傷つきます。
「自分は社会不適合者なのではないか?」と悩むこともあるでしょう。
そんなとき、「普通」という基準を手掛かりに、生き方を模索する場合もあります。
多くの人と同じような人生設計をし、その果てに安心感を得ることが自分の幸福につながる。
それも確かに素晴らしい人生ではありますが、病気やけがも含め、些細なアクシデントで「普通の生活」は崩れ去ることも多いのもまた事実。
普通に生きるというのは、状況と幸運にも恵まれたとてもハードルの高いものではないかと思います。
矛盾するようですが、普通は意外と難しいのが現実です。
そもそも基準があやふやですからね。
スクールカーストについての記事はこちらをご覧ください。
「普通」という「虚構」を信仰する人々
ここからは少し理屈っぽい話になります。
日本人の「普通信仰」「平均崇拝」等、これらについて様々な人が語っております。
特にある年代以上の日本人は戦後の「一億総中流社会」という価値観にどっぷりと浸かっていましたので、「普通」と言われる範囲を心のよりどころにしてきた人も多いのでしょう。
彼らが親となり、我が子の幸せを願うあまりに「普通」の考え方、生き方を教える。
経験上、それが生きていくうえで摩擦が少なくて済むからです。
日本人だけではなく、人間の本質でもあります。
世界的なベストセラーの「サピエンス全史」から引用します。
私たちの独特の言語は、噂話のために発達したのだそうだ。この説によれば、ホモ・サピエンスは本来、社会的な動物であるという。私たちにとって社会的な協力は、生存と繁殖のカギを握っている。個々の人間がライオンやバイソンの居場所を知っているだけでは十分ではない。自分の集団の中で、誰が誰を憎んでいるか、誰が誰と寝ているか、誰が正直か、誰がずるをするかを知ることのほうが、はるかに重要なのだ。
ユヴァル・ノア・ハラリ著、「サピエンス全史」第2章 虚構が協力を可能にした より引用
自分を誰かと比べたり、社会的な平均値から自分の立ち位置を決めたり…これは人間の歴史が続いていく以上、避けては通れない円滑な生存への道です。
人間が築いた文明社会は、利便性の追求とともに、宗教などによる心のよりどころ、文化や風習、それらが混然一体となって「同時代のみんなが何となく納得した普通の道」を歩んできました。
それは必ずしも正しい結果を招くとは限りません。
「普通」が必ずしも正しいわけではないという一例を挙げてみましょう。
初代皇帝アウグストゥス以前の共和制古代ローマの公衆浴場は混浴が普通でした。
それが男女別となりましたが、入浴は古代ローマ人にとって普通の習慣でした。
しかし中世ヨーロッパになりキリスト教が「普通」になると、入浴の習慣すら廃れてしまいました。
教会は、体の清潔は精神的清浄を意味すると考える一方、裸体で浴槽につかっていることは肉欲にも繋がると否定的だった。中世の医学でも、入浴により皮膚の表面から水の悪い成分が体内に入ると信じられた。
引用元・産経ニュース【イタリア便り】 風呂との縁切ってしまった中世ヨーロッパ
この結果、疫病が蔓延するなど、命に関わるような困ったことになりました。
日本でも江戸時代の男性はちょんまげ姿で、女性も時代劇でおなじみの姿で、既婚者はお歯黒をしていました。
これは当時の普通ですが、今では考えられないことです。
これは少しオーバーな例でしたが、私たちが生きてきた中でも、「普通」の概念はゆるやかに変わっていっています。
時代と共に移り変わる「普通」
ここではざっくりとしか取り上げておりませんが、「普通」の基準はここ数十年でもコロコロと変わっています。
お住いの地域や、住民の年齢や社会的な立場によっても「普通」の基準は様々ではないでしょうか。
ちなみに、市民 大衆 庶民の違いとメディアでは使われ方はこちらの記事に書いてあります。
誰かから「普通」を強要された時の対処法。
たとえばちょっと派手めな服を買ったとき、両親から「なんだその格好は! 普通にしていなさい」と言われたことはありませんか?
「もう30なんだから、そろそろ結婚も考えるべき」
「普通、男はAT限定免許なんて取らないだろ」
等、他人から言われても、さすがに「大きなお世話だ」とは言い返せないですよね。
ちょっと乱暴な考え方ですが、私はある意味で「普通」は「宗教」であると捉えています。
あやふやな「普通」という概念を「ある」と信じて他人に「正しいこと」として説く。
あるいは「お前の信仰は間違っている!」と糾弾する。
宗教の布教活動以外の何物でもないと私は思うのですが、いかがでしょう。
メチャクチャな論理の飛躍だと思われる向きもありましょうが、
たとえば熱心に聖書の教えを説き、イエスの生き方がいかに尊いかを説く人がいるとします。
自身がキリスト教信者でなければ、「なるほどね~」程度の相づちで済ますのではないでしょうか。
ここで「神はいない」とか反論するのはNGです。
日本には信教の自由(特定の宗教を信じる自由、または一般に宗教を信じない自由)がありますから、
こちらの信仰が否定されたからと言って、相手の信仰をむやみに否定すべきものではありません。
相手の考え方を宗教だと捉えると、
相手を許せる、自分も傷つかない…
結構本気でそう思っております。
よくいるような「結婚相手は普通の人でいいです」みたいな人の「普通」が、限りなくハードルの高い「理想」に近かったとしても
相手の信仰なので尊重するようにしています。
そんな風に考えたら、腹も立たなくなりました。
たとえば親に「普通でいいんだ」「普通にしろ」と言われたとしても、反論しないで話半分で聞けるのではないでしょうか?
人生を楽しむ秘訣は普通にこだわらないこと。
普通と言われる人生を送る人間なんて一人としていやしない。
いたらお目にかかりたいものだ。
─アインシュタイン
まとめ
・『普通』には範囲があって個人によって基準が違う。
・『普通』の基準とは大多数が「何となく定める価値観」で、年代によって変化していく。そのため、世代間で『普通』の基準が異なる場合がある。
・全てにおいて平均的な「普通の人」でも、一点でも基準から外れると途端に普通ではなくなる。
・『普通』とは宗教である。「普通」を強要してくる人は真実だと思い込んでいるが、ただの信仰に過ぎない。
普通という価値観に心をとらわれることはなく、生き生きと過ごしていきたいものです。