あけましておめでとうございます。
ネット上の記事なので、お正月でない時に読まれていることもあり得ますが、それでも、おめでたい言葉なので言ってみました。
「新しい年を寿ぐ」なんて言葉もあります。
ことほぐ、とは言葉でお祝いするという意味です。
日本古来から現代にいたるまで脈々と続く「言霊」信仰とも密接に関連します。
それはさておき、当記事では昭和〜平成〜令和の現在に至るまで、お正月のありようはどう移り変わったかを年代別に述べていきます。
80年代から10年代までの年代別に4人のキャラクターが対話形式でお送りする拙作『時空オカルト研究会』
2020年となりましたので5人目のキャラクターにも登場していただきましょう。
正月とは何か~神道の「歳神様」とは何者か?
大年神とは日本神話の神様の名前です。
須佐之男命(スサノオノミコト)と神大市比売(かむおおいちひめ)との間に生まれた穀物神です。
毎年正月にやってくる来方神でもあります。
登志とは穀(稲の実り)のことなり、其は神の御霊以て、田に成して、天皇に寄奉賜ふゆえに云り、田より寄すと云こころにて、穀を登志とはいうなり
本居宣長『古事記伝』より()は筆者による
正月料理の歴史は古く、日本人の主な価値観が「農耕」に定着した弥生時代にまでさかのぼりますが、詳細は定かではありません。
平安時代になると、元旦や五節句を祝う「節会(せちえ)」という宴が宮中で催されました。
神様に供えた食事を下げて家族で食べる直会(なおらい)の食べ物が起源と言われています。
その際に振る舞われた料理を「御節供(おせちく)」といいました。
もちろん現在のようなおせち料理ではなく、簡素なものでありました。
正月に出される料理という変化を遂げたのは、江戸時代後期です。
宮中で行われていた行事が、民衆の間にも広まっていきました。
「諸国風俗問状答」という書物には数の子や田作りを用いていたという記述があります。
これらの正月料理には、それぞれ子孫繁栄や健康で暮らせるようにとの願いが込められています。
「食積(くいつみ)」関西では「蓬莱(ホウライ)」などと呼ばれていました。
※徐福と秦の始皇帝と不老不死については別記事を準備中です。
「おせち」と呼ばれるようになったのは意外にも第二次世界大戦後、すなわち「昭和」の時代になってからです。
デパートなどが見栄えの良い重箱に入れて発売したのも高度経済成長期
80年代のお正月
地方の個人商店やデパートに活気があった時代でした。
年末商戦を終えた商店街ではほとんどの店がシャッターで閉ざされていました。
個人商店は玩具屋でも3元日休んでいたところもあったようです。
年末年始をふるさとや行楽地で過ごした人たちのUターンラッシュなどで、各地の高速道路や新幹線などの交通機関が混雑する様子も年末年始の風物詩でした。
現在のようにETC等もなかった時代です。
高速道路の料金所では現金での決済が基本でしたので、色とりどりの車たちで長蛇の列ができていました。
※14年のGWでは関越道(下り)の花園IC付近で60キロの渋滞を記録しています。
80年代当時は現代のようにスマホも携帯ゲーム※もなかった時代※です。
※任天堂のゲームウオッチは80年に発売されていました。
ゲームボーイは89年発売です。
車載モニターで動画を見たりも、当時の一般家庭ではまずありえません。
この時代のUターンラッシュに巻き込まれた子供たちのストレスは如何ほどのものだったのでしょう。
80年代特有の空気感は以下の記事にまとめました。
NHKの『紅白歌合戦』TBSの『日本レコード大賞』フジテレビの『新春かくし芸大会』など、昭和の時代を彩った国民的番組は80年代でも存在感を示していました。
『ゆく年くる年』は、NHKによれば55年(昭和30年)開始。現在まで続く日本の最長寿番組のひとつです。
全国各地の神社仏閣からの中継を交えた放送は、除夜の鐘の音とともに多くの年越し番組の喧騒とは一線を画した構成です。
在京キー局(民間放送)の持ち回りによって制作された『ゆく年くる年』は全国の民放テレビ局が89年まで同時放送していました。
新春のワイドショーではハワイで正月を迎えた芸能人のプライベートを追いかけるなど、静と動、現在では考えられないほど極端な放送内容でした。
紅白歌合戦の影響力
紅白歌合戦の影響力は、80年代にはすでに陰りが見えていたと言われています。
かつて圧倒的だった視聴率は85年に70%を下回ってから、1980年代末には50%台まで急降下しています。
それに伴い、当時のNHK会長や幹部たちによる「紅白廃止」案なども出るようになりました。
89年(第40回)の視聴率低迷の際などには、翌年から紅白に代わり「アジア音楽祭」が企画されましたが、幻に終わりました。
二部構成となった90年代の紅白歌合戦の視聴率は50%前後で推移することになります。
それでも、歳月を越える素晴らしい曲はたくさんあるものです。
以下の記事は「すごい歌詞」に焦点を当ててまとめてみました。
00年代になると日本人の生活様式はますます多様化する一方、テレビに出演するアーティストたちの顔ぶれが固定化していきます。
それに加え、審査員などもNHKの看板番組から選ばれるようになるなど、同局内でのタイアップも目立つようになりました。
そしてアニメファン以外のお茶の間を凍り付かせる(?)「紅白アニメ枠」などの時代の流れに合わせた企画なども、
「普段テレビを見ない人にも楽しんでほしい」という製作者の熱意が伝わってきます。
決してこれは皮肉ではなく、「若者のテレビ離れ」が言われる中で前世代が楽しめる国民番組を作ろうと知恵を絞る製作スタッフには頭が下がる思いです。
90年代のお正月
当ブログでもたびたび取り上げていますが、90年代は前半と後半でまるで違う時代になっています。
バブル崩壊は90年1月です。
89年末の日経平均株価が史上最高値の3万8915円が、92年8月には1万4309円にまで下落してしまいます。
芸能人だけでなく多くの人たちが正月を海外で過ごすようになったのは平成に入ってからでした。
出国・帰国ラッシュなどの報道も年末年始の恒例行事となりました。
デパートで高額おせち料理なども平成になってからの方が大々的に宣伝されていた印象があります。
福袋争奪戦についても、昭和の時代とは違って中身が見えるものや多様化しつつあった個人の好みに合わせたものなど時代に合わせた変化が見られます。
90年(平成2年)1月4日には日本橋の三越本店で1億9900万円の福袋が売り出されました。
ちなみに中身は5.51カラットのダイアの指輪や純金で出来た干支の馬など6点でした。
私が興味深く感じるのは、後に「失われた20年」と呼ばれる平成の大不況下においても、人々(特にメディア関係者)の間ではバブル的な価値観が引き続いていたように思えるところです。
不況と言いながらも、価値観自体はバブルを未だ引きずっているような世相は90年代半ばあたりまで続いていました。
しかし95年の地下鉄サリン事件で一躍明るみになったオウム真理教による一連の事件と96年の阪神淡路大震災の影響で世相は一変しました。
相次いだ少年犯罪なども加わり、時代は世紀末的な暗い雰囲気の中での刹那的な享楽主義が蔓延していました。
90年代のヤンキー文化は以下の記事にまとめました。
コンビニの影響力
前後半で全く空気が違う90年代ですが、共通点がひとつだけあります。
若者向けの小売業の主軸がコンビニエンスストアで完全に定着した点です。
そして90年代の正月について考えるならば、コンビニの普及が何よりも大きいのではないかと思います。
コンビニ自体は80年代から続々と全国展開をしていました。
しかし、気がつくといたるところにコンビニがあるのが当たり前になったのは90年代からではなかったでしょうか?
もちろんお住いの地方によっては差異の大きなコンビニ事情ではあるでしょうけれども。
365日24時間営業の小売業の出現は、私たちのライフスタイルに果てしない影響を与えました。
消費者にとっても、そこで働くオーナーや労働者にとっても。
「お正月は休むもの」という常識が覆ったのは90年代コンビニの影響と考えて間違いないでしょう。
先に述べた90年の日本橋三越の初売りは1月4日でした。
しかし00年代にかけて全国のスーパーマーケットや有名百貨店、デパートなどがお正月営業に乗り出します。
00年代のお正月
00年代の年末年始と言えば、各地でカウントダウンイベントが盛んになったことではないでしょうか。
有名ホテルやリゾートなどでは趣向を凝らしたカウントダウンイベントが行われています。
一方テレビなどで格闘技の大晦日興業が始まったのも、00年にアントニオ猪木氏がプロデュースしたINOKI BOM-BA-YE('イノキ・ボン-バ-イエ)が始まりでした。
00年は年明けの録画放送でしたが01年は視聴率は紅白歌合戦に次ぐ2位となり、大晦日の格闘技中継は00年代初頭に一世を風靡しました。
ピークは04年にナゴヤドームで行われてたK−1:Dynamite!!ボブ・サップ対曙でしょうか。
19年にはフジテレビ系列で5時間45分の生放送が行われました。
この時代の特色としては「若者のテレビ離れ」が顕在化したことでした。
テレビ離れの理由については以下の記事にまとめました。
その一方でアーティストのカウントダウンライブや、冬フェス、野外カウントダウンライブは19年以降も盛況が続いています。
それが盛んとなるキッカケはこの00年代からではないでしょうか。
もちろんそれ以前の時代でもライブハウスや東京ドームなどでの年越しライブは行われていましたが、大々的に盛り上がるのは00年代後半からだと認識しています。
ちょうど、CDが売れなくなり音楽は生で体感するエンターテインメントとして産業構造が移り変わるのがこの00年代でした。
そして言うまでもなくSNS普及が与えた影響ははかり知れません。
面識はないけど価値観や趣味を同じくする者同士がSNSやチャット、あるいはMMO(オンラインゲーム)などで「あけおめ」を連呼するのは新しい定番となりました。
90年代に始まった福袋争奪戦はネットでの転売なども見られるようになりました。
初詣のイベント化は90年代からの流れですが、00年代以降は各地の神社の参拝者数は増え続けていきました。
10年代のお正月
11年3月11日に起きた東日本大震災と、福島第一原子力発電所の事故は、この年代を語る上で欠かすことはできないでしょう。
正月どころではないほど生活が一変してしまった方も数多くいるでしょうし、私たちは多くのものを失いました。
特に原発問題における論争は、落としどころの見つからないまま現在に至っています。
価値観が多様化する中で生じた認識のズレは社会の分断を招いていると言わざるを得ません。
当ブログでは「どちらが正しいか」という点には主眼を置きません。
あくまでも内向的な人の目線で、社交的ではない私たちが生きやすい世の中になる一助となるための記事を書いています。
10年代のお正月を語る上で、自然災害の影響も避けては通れません。
東日本大震災に限らず、近年は台風や南岸低気圧による大雪などの自然災害が猛威を振るっています。
これらの災害を通じて、改めて生活共同体の最小単位である家族の絆や大切さが問われるようになったのではないでしょうか。
もちろんSNSなどを通じてのボランティア活動や、見ず知らずの人の協力も以前よりも活発に行われるようになりました。
話を軽い方向に戻すと、10年代はおせち料理の多様化と同時に「おせち離れ」もジワジワと進んでいます。
ソフトブレーン・フィールド株式会社の調べによると
「基本的におせちを食べる人」は14年の調査では74.2%だったのに対し、17年では68.9%と減少傾向でした。
「基本的におせちを食べない人」は14年に25.9%だったのに対し17年では31%に増加傾向でした。
事実、ネットなどでは「#おせち料理マズい」みたいな意見がよく見られます。
ネット通販によるおせち料理のお取り寄せも一般的になったのも10年代の前半くらいでしょうか。
10年は頼んだ商品が見本写真とかけ離れていた「グルーポンのスカスカおせち」も騒動になりました。
この経緯はちょっとややこしいので割愛させていただきますが、本来であれば当事者とその周辺しか知り得ないようなトラブルがSNSによって可視化され炎上してしまいました。
10年代では似たような騒動はおなじみになりましたが、構造的には「個人による情報発信が思わぬ形で拡散する」というものではないかと思います。
4年後の14年にはグルーポンはおせちの販売を再開しましたが、現在はショッピングクーポンの販売を行っていなようなので、おせちは扱っていません。
20年代のお正月は?
19年4月より働き方改革関連法案の一部が施行されました。
厚生労働省の定義によれば、働く人たちが個々の事情に応じた多様で柔軟な働き方を自分で「選択」できるようにするための改革の事です。
企業の慢性的な人手不足や、少子化による影響、団塊の世代が後期高齢者となることも関連しているでしょう。
19年の話題として象徴的だったのが、コンビニ各社による元日営業の是非でしょう。
元日に一部店舗の休業を決めたのが、セブンイレブン、ローソン、デイリーヤマザキの3社でした。
現在では実証実験という体裁を取っていますが、コンビニの労働環境の変化は20年代になって変わっていくのではないでしょうか。
個人が情報発信し、企業を動かすようなケースも今後ますます増えていくようになるのかもしれません。
すでに一部のスーパーなどでは元日を休業する店舗も少なくありません。
昔のように小売業が三元日を休むことはないでしょうが、正月に休む文化の復活は今後の流れになっていくのではないかと思います。
お正月を楽しむ層と、そうでない層の二極化は今後も進んでいくと思われます。
まとめ
お正月の由来とおせち料理についてカンタンにまとめ、80年代~10年代までのザックリした世相や年代別の正月の特色について述べてみました。
加えて20年以降の展望などもサックリと予測してみました。
お正月を語るという事は、取りも直さず日本人を語ることでもあります。
2020年代を迎えた日本はどうなっていくのでしょう?
内向的な者の視点で、今後も様々な物事を考察していきたいと思います。
新しいキャラクターの成長とともに、本年も当ブログをよろしくお願いいたします。