ヒャッハーとは、無法者やならずものたちが狼藉(ろうぜき)を働く様子を揶揄する言葉です。
フィクションの世界のみならず、動画サイトやネット掲示板などでは無政府状態での暴徒化した群衆や略奪行為などにも使われます(不謹慎なのは否めませんが…)
元ネタは漫画『北斗の拳』に登場した名もなき悪党たちが叫んだとされる奇声から発生し、ネットを通じて定着していったイメージです。
今回は「ヒャッハー」という概念が生まれ、定着するまでの流れを年代順に述べながら、映画・漫画アニメにおける「終末モノ」の中でも「荒廃した文明社会が描かれた作品」にスポットを当てて考察してみたいと思います。
言うまでもないことですが、当記事は無法地帯や略奪行為を決して肯定するものではありません。
ヒャッハーの語感の良さとイメージの的確さ。
難しいことは置いておいて、まずは「ヒャッハー!」という言葉の響きにあるのではないでしょうか。
何となく語感に疾走感(?)があります。
併せて添付されることの多いモヒカン頭の悪党のインパクトが強いため、元ネタを知らなくても一瞬で意味が分かる感じではないかと。
イメージとは面白いもので、みんなが何となく納得していないと定着しないものです。
その点、ヒャッハーは一度見ただけでほとんどの日本人がイメージを共有できる非常に秀逸な概念だと思います。
まず、この語感には知性も怨恨も感じさせない、単純に暴力への衝動と歓喜が多分に含まれています。
ある意味では、人間の本能的な破壊衝動を喚起させる、刺激に満ちた言葉ではないでしょうか。
しかしながら、このイメージが共有されるのは現在60歳~ギリギリ70代くらいまでの人あたりまでの年代が限度のような気がします。
元ネタの『北斗の拳』『マッドマックス』あたりの認知度にもよるとは思いますが。
19年時点での小学生のほとんどが「ヒャッハー!」と言われてもピンとこないでしょう。
※妖怪ウォッチで「北斗の犬」とかのネタもあるので知っている良い子の皆さんもいるかとは思いますが…。
ただ、今後おそらく死語になると思われる「ヒャッハー!」
ですが、20世紀後半の映像作品を語る上では欠かせない世界観として顧みられる機会がないとも言えません。
過ぎ去った世紀末に思いを寄せながら、なぜこのような無法者が一世を風靡したのか、掘り下げてみたいと思います。
ちなみに、三下ではなくもう少し大物の悪役の魅力については以下の記事にまとめました。
マンガ・アニメの魅力的な悪役を語る DIO様から鬼舞辻無惨まで
根本にあるのは冷戦後のフィクションで描かれた核戦争後の世界のイメージ
「ヒャッハー」については漫画『北斗の拳』から発生したイメージですが、その源流をたどると元ネタとなったいくつかの作品が挙げられるでしょう。
まず映像作品としては『マッドマックス』(79年 豪)そして続編の『マッドマックス2』(81年 豪)が決定打と言えるのではないでしょうか。
ですが、それ以前にも(テイストは様々ですが)SF小説やB級映画などでは核戦争後の荒廃した地球が舞台となる作品が数多く作られていました。
この手の世界観の先駆けとしてはロジャー・ゼラズニイが67年に発表したSF小説『地獄のハイウェイ』と言われています。
人間の滅びへの本能的な恐れは、文明の発展と共に現実の問題として認識されるようになります。
背景にあるのは冷戦時代の核の脅威でしょう。
20世紀、人類はその手で世界を滅ぼす力を手に入れたわけです。
この事実は、数多くのSF小説および映画に多大な影響を及ぼしました。
中でも米ソの原水爆実験の報道は、被爆国である日本人にとても強い戦慄を覚えさせました。
当時のニュース映像や新聞などを見ると、日本人がいかに核兵器を恐れていたかがよく分かります。
※もちろん現在でも核の脅威は続いているのですが、当時と今では感情の温度差があるように思えてなりません。
また、62年(昭和37年)キューバ危機で、全面核戦争が現実に起こる寸前まで達したことは、世界中に衝撃を与えました。
加えて日本では公害問題も大きな社会の関心事となり、多くの国民が危機感とともに「このままではいけない」と思うようになりました。
このような世相や社会情勢に反映される形で、SF小説や漫画やアニメ、映画などのフィクションでは核戦争後の荒廃した世界が描かれるようになったと思われます。
結果的に、そうした作品が話題となり、興行的に成功したことにより、その世界観をさらにエスカレートしたものがジャンルとして定着しました。
世紀末ものの先駆け永井豪『バイオレンスジャック』の影響
70年代の少年漫画界に時代の寵児として君臨していた永井豪氏が「週刊少年マガジン」に73年~74年まで連載した『バイオレンスジャック』のインパクトは避けては通れないでしょう。
後にアニメ化もされた永井豪氏の代表作の一つです。掲載雑誌を変えながら05年まで連載が続けられました。
「関東地獄地震」という、架空の巨大地震によって本州から分断され、無法地帯となった関東地方は混沌と暴力の中で、まさに弱肉強食の世紀末状態が『バイオレンスジャック』の世界設定です。
絶望的な状況でもたくましく再起しようとする民衆と、彼らを温かく(?)見守る謎の大男バイオレンスジャックの活躍が描かれています。
過激なシーンも多く、マンガが何でもアリだった時代ならではの描写に面食らう若い読者もいるとは思います。
詳しくはこちらの記事をご覧ください。
『マッドマックス』の舞台が荒廃した世界なのは低予算が原因?
『マッドマックス』は79年に公開されたオーストラリアの映画です。
荒廃した近未来を舞台に、凶悪な暴走族と戦う警官マックスの活躍を描いたアクション映画です。
監督はジョージ・ミラー。1作目は35万ドルという低予算で制作されましたが、世界的に大ヒットを記録しました。
主演のメル・ギブソンはこの作品がきっかけに世界的なスターとなり、後にハリウッドに進出しました。
81年に公開された続編『マッドマックス2』では、前作の約10倍の予算を使い、より過激に、アクションとバイオレンス色を強めた娯楽大作になっています。
荒廃した世界観やモヒカンヘアーの暴走族、プロテクターなどの奇抜なファッションは80年代のポップカルチャーに多大な影響を与えました。
3作目『マッドマックス/サンダードーム』(85年 豪・米)までが作られた後、27年ぶりに4作目『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(15年)が公開され、新作の制作も進んでいます。
80年代の日本の漫画に与えた影響は大きく、『北斗の拳』は言うまでもなく、東本昌平『F,О,E』など、数多くの漫画作品がこの世界観をモチーフにしました。
異色なところでは、プロレスのタッグチーム「ロードウォリアーズ」も、マッドマックスに登場する荒くれ者を元にした衣装とメイクで一世を風靡しました。
可動式フィギュアのFigmaなどで知られるガレージキットメーカー代表 MAX渡辺氏も「マッドマックス」から名前を取ったそうです。
『北斗の拳』誕生は流行りモノのごった煮だった?
『北斗の拳』は原作・武論尊 作画・原哲夫による漫画作品です。
83年に週刊少年ジャンプに連載されると、大ヒットを記録していわゆる「第一次ジャンプ黄金期」を築く主要連載陣の一角となりました。
アニメ化され、こちらも大ヒット。『北斗の拳』は社会現象にもなりました。
その後、パチスロの台としても大ヒットして、漫画好き以外にも幅広い層の人々から認知されています。
そんな北斗の拳を語る上で欠かせないのが当時、原哲夫氏の担当編集者であり、後々まで深くかかわることになる堀江信彦氏の存在です。
「マッドマックスの世界にブルース・リーが現れたら」という基本的なコンセプトのもと、堀江氏を含めた3人でストーリーを作る体制を取りながら、ほとんど行き当たりばったりで週間連載を進めていったそうです。
改めて読み返してみると、北斗の拳は当時人気だった他作品の要素を「これでもか」と盛り込んだ内容になっています。
本記事のタイトルにもなっている「ヒャッハー!」ですが、実際のところ漫画版にはそのようなセリフはありません。
悪党たちの奇声も「ヒャアーッ!!」「ヒャッホー~!!」はありますが、厳密には原作で一言も発せられてないとか。
アニメでの声優さんの熱演によって「ヒャッハー!」となり、その語感とノリの良さからファンの間に広まり、定着したと言われています。
現在では『DD北斗の拳』(10~16年)や『北斗の拳 イチゴ味』(13年~)という公式のパロディ作品でも頻繁に登場し、『北斗の拳』の雑魚キャラが生き生きと活動する世界観を一言で表すキーワードとなってしまいました。
エヴァ以降の終末モノは内省的な方向へ
そんな「ヒャッハー」ですが、90年代半ばになると一気に終息していきます。
原因は、バブル崩壊後の不景気(失われた10年、20年)が続いたことによる閉塞感と、現実に迫った21世紀を前にした何とも言えない退廃的な時代の空気だったように思います。
『新世紀エヴァンゲリオン』(95年)が社会現象になるほどのブームを巻き起こし、特にそれまでの終末モノの世界観を一新させてしまったことも印象的です。
また、地下鉄サリン事件(95年)をはじめ、オウム真理教が起こした一連の重大事件の影響により、終末や救世主などの題材に対して自粛ムードもありました。
オウム真理教とサブカルチャーの影響については以下の記事にまとめました。
以降00年代前半にかけて、一部の例外を除いて終末モノは内省的な方向性、あるいはゆるやかなディストピアな世界観を突き進むことになります。
このようなことを書いてしまいましたが、ふと思い出しました。
そういえば「ヒャッハー」は、かつて一世を風靡した「ふなっしー」の決め台詞でも有名ではないですか。
裏を取ったわけではないですが、おそらくふなっしーも「ヒャッハー」をアナーキーなニュアンスで使っているのではないのか思われます。
ふなっしーがブレイクした13年頃は、「ヒャッハー」はネット上ではよく使われていたものの、そうした世界観の作品は少なくなっていた時代でもあります。
意外なところで「ヒャッハー!」は息づいていると思いました。
ゲーム『メタルマックス』に与えたヒャッハーの影響
『メタルマックス』(91年 データイーストより発売されたファミコンソフト)は、『マッドマックス』の世界観をゲームに落とし込んだ異色作でした。
当時のテレビCMのキャッチフレーズは「竜退治にはもう飽きた」が象徴するように、当時は国民的RPG『ドラゴンクエスト』シリーズが隆盛をきわめ、ファンタジー風RPGが市場を席巻し始めた頃でした。
そんな中で荒廃した未来の世界を描き、それまでにない自由度でRPGを楽しめる本作はカルト的な人気を博し、忘れた頃に新作が出るゲーム業界でも珍しいシリーズものになっています。
「戦車と人間のRPG」という独特なテーマを掲げ、「ヒャッハー」がすたれ始めた00年代でも『メタル・サーガ』(05年 PlayStation 2用ソフト)という実質的な続編が作られたりしました。
10年には『メタルマックス3』(ニンテンドーDSソフト)が発売され、19年には『メタルマックス ゼノ』など、紆余曲折を経ながら新作が作られ続けています。
『進撃の巨人』になぜ「ヒャッハー」は出ないのか
09年から別冊マガジンで連載された諫山 創氏による大ヒット漫画『進撃の巨人』も、文明が崩壊し停滞した世界※を描いています。
※世界観は非常に練られ、事細かく設定されていますが、謎が多く単行本のおまけページなどで「現在公開可能な情報」として断片的に公開されているのが特徴です。
人間同士による略奪なども描かれていますが、そこには陽気な「ヒャッハー!」などは登場しません。
巨人という、人類に対する圧倒的な脅威に対抗するために、切実な対応を迫られる人々の姿が描かれています。
襲ってくる巨人たちも、人類とは絶望的にコミュニケーション不能な異質な存在として描かれていて、不気味さを際立たせています。
この題材だと、ともすれば『デビルマン』や『北斗の拳』のような展開になる可能性もありながら、諫山氏は独特の世界観を一貫して表現しているのは圧巻と言えるでしょう。
また、連載開始当初は粗削りな描画も多かったこの作品に対して「よくわかんないけどこの漫画ヤバい!」とピンときて読者になった方も多いのではないでしょうか。
社会現象となるような作品は作者の才能・出版社の巧みな宣伝だけで作られるわけではありません。
『進撃の巨人』は、作者の力量と熱意、対する読者の受け方と、時代の空気がそろったところで、大きな渦を巻き起こした格好の作品ではないでしょうか。
漫画『Dr.STONE』と「ヒャッハー」に見る時代性の違い
17年から週刊少年ジャンプに連載されている漫画『Dr.STONE』(ドクターストーン)原作 稲垣 理一郎 作画 Boichi
全人類が石化して3700年後の世界で目覚めた主人公 石神 千空(いしがみ せんくう)と大木 大樹(おおき たいじゅ)は、文明を喪失した世界でゼロからの再生を目指すという物語です。
この作品も大まかにポスト・アポカリプス(終末後の世界)に入ると思いますが、科学的な知識や登場人物の行動原理など、それまでの漫画作品(バイオレンスジャックや北斗の拳)とは大きく異なっているのではないでしょうか。
科学文明を築き上げてきた人類を全肯定し、ストーンワールドで生きる人たちの熱い思いを描いています。
具体的な手段での「再生」に焦点を当てているところに、このもマンガの新鮮さがあるように思えます。
まとめ・ポスト・アポカリプス(終末後の世界)は何故わたしたちを魅了するのか
『バイオレンスジャック』から『北斗の拳』『進撃の巨人』『Dr.STONE』を「ヒャッハー!」の視点から比較してみると、時代性の違いが浮き堀にされて興味深く思いました。
これらの作品の共通点として、絵がコッテリ系という点もありますが、物語構造は「再生への道筋」という点でも共通しています。
年代を追うごとに表現が具体的になっていくところも面白いと感じました。
一方で『ヨコハマ買い出し紀行』や『少女終末旅行』は別の方向性で描いた終末モノとして認識できるのではないかと思います。
さて現実の世界に話を戻すと、先進国の多くでは「個人に焦点を当てた」政策を打ち出し、「働き方改革」のような暮らしやすい社会を目指しての「理性化」「合理化」が推し進められています。
そんな中で(主にフィクションの世界の中で)無軌道で乱暴狼藉を働く「ヒャッハー!」たちは、もはやパロディ的な作品の中でしか輝きを放てないような時代になったと感じます。
たとえ狼藉者といえど、主人公側が銃を取る相手は人間と言うのは娯楽として後味が悪いのかもしれません。
ゾンビであれば、恐怖も増しますし倒す側も容赦なく戦えるので、派手なアクションも描きやすいのでしょう。
ゾンビ映画の定着により、ヒャッハーな終末モノは衰退したのかもしれません。
それでも、ポスト・アポカリプス(終末後の世界)を描いた作品は今後も作られ続けていくでしょう。
私たちが崩壊や終末にロマンを感じている限り、無くなることはないと思われます。