元号が令和に変わった2019年以降、ヤンキー文化はどう移り変わるのでしょうか。未来予測と共に、滅びゆく不良文化と繁栄するヤンキー的カルチャーを比較し、思いを巡らせます。
17~19年くらいで(外見が)ヤンキーの人口が極端に減っている?
町を歩いていて、ふと思いました。
年々、ヤンキー的な外見(特に威圧感たっぷりのガチヤンキー系)の年少者が減っているのではないかと。
あくまでも、地下鉄などですれ違った通勤通学の人たちや、休日の行楽地や地方のショッピングモールで見かけた人たちの服装や印象から判断しています。
私は内向的な人間なので、繁華街に足を運ぶことはめったにありません。
ハロウィンの渋谷にも縁がありませんので、ハレの日に着飾って外に出る人たちの心理はよくわかりません。
驚安の殿堂(?)ドン・キホーテに行った際の、ヤンキーとの遭遇率がきわめて減ってきたように感じるのです。
この記事を読まれている方の町ではどうでしょう?
もちろんお住いの地域によっては、まだまだ「ヤンキー上等じゃゴルァ!」な方々を目にする機会もあるかとは思いますが…
ヤンキー=ダサい、不良が時代遅れとなってしまった理由
一言で言ってしまえばインターネットの普及による情報の可視化が、ヤンキー衰退の直接の原因だと思われます。
ヤンキー=時代遅れとなる価値観の変容はこちらの記事にて全力で書いております。
この記事にても書きましたが、平成末期~令和時代の流れにおいて、不良でいることのメリットは完膚なきまでに粉砕されたと言っていいでしょう。
特に十代の方にとっては、ヤンキー的な価値観に共感することはあっても、本物の不良に憧れるような考え方は、ほとんど絶滅したのではないでしょうか。
潜在的なヤンキー気質の人は令和時代も存在している
数は少なくなったとはいえ、現在でも不良に属する人たちは存在しています。
外見は派手でなくとも、性格や考え方が不良っぽい、いわゆるヤンキー気質と呼ばれる人たちは一定数います。
ヤンキー気質について考えてみた記事はこちらからご覧いただけます。
マイルドヤンキーは地方の若者のスタンダードになったのか?
マイルドヤンキーとはマーケティングアナリストの原田 曜平(はらだ ようへい)氏が14年に定義した1月に定義したものです。
人に関していえば、オタクカルチャーの一般化によって、マイルドヤンキーとオタクの垣根がほぼなくなりつつあるのではないでしょうか。
この傾向は、令和になっても続くと思われます。
平成時代のオタク文化の変遷は以下の記事にまとめました。
飲食店や商業施設のヤンキー化
見かけの不良人口は年々減っており、街で見かけるヤンキーも少なくなってきたように思えます(夏祭りやハロウィン等のイベントを除く)
はたして日本人は脱ヤンキー化したのでしょうか?
しかし、その一方で飲食店に目を向けると、年々派手になる季節のイベント(ハロウィンに代表される)や、「盛る」商品陳列やインスタ映えする食品…
「一平ちゃんショートケーキ味」のような、SNS上の拡散・話題作りに焦点を当てた「ネタ商品」も続々と日の目を見ています。
これらを一列に「ヤンキー的」と断じるつもりはありません。
あくまでも社交的で健全な社会人が「遊び心」を発揮して作り上げた「面白い」消費カルチャーだとおもいます。
飲食店の食べ放題におけるお店側のコストはとても効率が良いと言われています。
ビュッフェ形式は盛り付けなどにかかる人件費を抑えることができるそうです。
たとえ食いしん坊が来店したとしても、食べ放題の構造上ちょっとやそっとでは赤字にならない強固な経営戦略です。
それでいてお客様には最高に「贅沢な気分」にさせる文字通りWin-Winの飲食サービスではないでしょうか。
一方このような発想は、内向的な人間では決して思いつかないような「ヤンキー的な発想」アイデアだと思ってしまうのです。
決して食べ放題やおかわり自由の飲食店を批判する意図はありません。
自分が上品ぶりたいわけでもありません。
ただ、これだけは確かなことなので書かせてください。
食べるということは、生き物(植物を含む)の命をいただく行為です。
そこと「食べ放題」を結び付けられる発想は、超冷徹な合理主義者でありながら、きわめてヤンキー的な思考回路の人間ではないかと思うのです。
これを思いついた人って、大成功するヤンキー気質の実業家のイメージでしょうか。
仲間たちとたくさんの食べ物を(時間内ではありますが)無制限に思いっきり食べられる。
そこには祭りにも通じる原初的な気持ちよさがあるような気がします。
ロマンはありますよね無制限の宴。
余談ですが、私なんぞでも単身サバンナに放り込まれたら、ライオンやハイエナなどの野獣たちの食事にされるわけですが
どのみち食べられるのならば、食べ放題にされるのは嫌だなあと心から思うわけですよ。
でも、自分が動物だったらそもそもそんなこと思わないか…。
そのような空疎な妄想などは、ヤンキー気質の人間にとっては露にも思わないものであるのでしょう。
ヤンキー的リアリズムの一般化
「ヤンキー的リアリズム」という言葉は精神科医で批評家の斎藤 環(さいとう たまき)氏の言説からお借りしています。
ヤンキー研究と言えば避けては通れない氏ではありますし、読み物としても大変おもしろいので楽しんで読ませていただいております。
アニメやゲームには、その世界に固有のリアリズムがある。同じように、ヤンキーの美学にも独自のリアリズムがあるはずだ。それはさしあたり、"地に足が着いた"と形容したくなるようなプラグマティズム(実用主義)にもみえる。
世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析 斎藤環 著 角川文庫
これは慧眼でありましょう。
異世界ヤンキー
ヤンキー×異世界という、正反対なものを合わせてみた作品は散見されますが、キャラ設定にヤンキーを出したものがほとんどではないでしょうか。
代表的なものに、黒井へいほ 著 アルファポリス刊『ヤンキーは異世界で精霊に愛されます。』というライトノベル作品があります。
まとめ
ヤンキーはいつだって現場主義です。
斎藤氏も述べているように「いまここ」の繰り返しです。
出たとこ勝負的な、その場その場の決断と行動の繰り返しがそうなのかなと思います。
たとえ、ヤンキーファッションがすたれたとしても、ヤンキー的リアリズム、ヤンキー的なモノの考え方がすたれることはないでしょう。
むしろ一般的に定着していったと思えます。
令和の時代になり、他人に迷惑をかけたり、犯罪に直結するような不良文化は今後、減少化するでしょう。
おそらくバイトテロなども減少していくと思われます。
個人的にも、そうであってほしいと思っています。
その一方で、無邪気なヤンキー文化には、いつまでも元気であってほしいとも思うのは矛盾した感情でしょうか。