シティポップとは、都会的なイメージを打ち出した スマートで洗練された音楽スタイルです。
代表的なミュージシャンに、シュガーベイブ(山下達郎、大貫妙子、)竹内まりや、大瀧詠一…
70年代後半に誕生し、80年代の日本で流行しました。90年代の渋谷系と呼ばれたジャンルに影響を与え、00年代後半から再評価が始まりました。
10年代になると動画サイトなどを通じて海外で大ブレイクし、アナログレコードを求めて外国人が来日し、CDショップやレコード店を回る様子がテレビなどでも取り上げられました。
シティポップの歴史と、再評価の背景にあるヴェイパーウェイヴと呼ばれる10年代を象徴する音楽ジャンルについて、ざっくりと考察します。
シティポップってどんな音楽?
正式な音楽ジャンルの呼称でもありませんし、明確な方法論があるわけでもありません。
フォークソングでもなく、ロックミュージックでもない、ポップス寄りの楽曲です。
ソウルやジャズなど、いわゆるブラックミュージックの影響も感じさせる多彩な音楽性で完成度の高い作品の多い印象です。
いわゆるAC(アダルト・コンテンポラリー)と呼ばれる音楽ジャンルの文脈で語られることもあります。
元々シティポップは日本のみで通じる言葉でした。
乱暴に分類させてもらえば、土着的な歌謡曲とは違う「こじゃれた」都会的な印象を受ける音楽の総称です。
さらに言えば「垢ぬけた印象を受けるポップス全般」です。
実際に製作者の多くが東京生まれだったりします。
※山下 達郎や大瀧 詠一、鈴木 茂、井上 鑑氏等々…。
1970年代の若者に人気だったフォークソング。反戦平和などの社会的・政治的なメッセージ性を織り込み、「歌」をメインに据えていました。
ロックミュージックは社会に対する反抗や怒りなどの若く荒々しいエネルギーや、ミュージシャン自身の激情を旋律に乗せるような「曲」が主体と言ってもいいかと思います。
これに対してシティポップは、都会的で洗練(ソフィストケート)された楽曲が特徴です。
歌詞も都市生活者の視点から恋愛の喜び、せつなさ、あきらめなどをサラっと書いたものが主流で、激情や土着的な精神性とは一線を画しています。
一般的に楽曲の完成度はとても高く、心地の良いメロディーや聞き心地の良いサウンドはBGMやCMソングとしても最適で、マスメディアにもこぞって取り上げられました。
大瀧詠一、松本隆、細野晴臣の3名によるバンド・はっぴいえんどの知名度は70年代~80年代ではほとんど知られていなかったようです。
結果的に70年代ニューミュージックの流れから80年代以降の3名の大活躍によって、90年代にいわば後付け的に「はっぴぃえんど史観」と呼ばれるものが作られました。
70年代~シュガーベイブとティン・パン・アレー、荒井由実と村井邦彦の仕事
シティポップのルーツはシュガー・ベイブ(SUGAR BABE)というバンドと言われています。
中心メンバーは山下達郎、大貫妙子、村松邦夫といった今でこそビッグネームですが、セールス的にもヒット作に恵まれず、当時はマイナーな存在でした。
活動期間は昭和48年(1973年)~51年(76年)という3年間でしたが、シティポップのみならず、音楽史的にも非常に重要なバンドです。
当時(70年代中盤)は、テレビの影響力が現代(ネット普及以降)とは比べ物にならない時代でした。
特に世代間や都心と地方とでの享受される娯楽文化の格差は、いまの視点からは想像できないほど大きかったことでしょう。
リアルタイムだった若者(都市部に住む大学生に代表される)彼らにとって、先鋭的な音楽を楽しむことはある種の特権的な意識もあったことでしょう。
75年に発表された荒井由実時代のユーミンの3枚目のアルバム『COBALT HOUR』もまた、シティポップの先駆けとなった重要なアルバムです。
このアルバムに収録され、後に代表曲のひとつにもなった『ルージュの伝言』では、後に夫となる松任谷正隆が編曲を担当しています。
参加ミュージシャンもベースの細野 晴臣、ギターの鈴木 茂、ドラムスに林 立夫といったバンド「ティン・パン・アレー」のメンバーが協力しています。
山下達郎や大貫妙子もコーラスで参加するなど、シティポップのみならず日本のポップスの方向性を決定づけた重要なアルバムのひとつではないでしょうか。
この背景には、アルファレコードの創業者で音楽プロデューサーの村井 邦彦の存在があります。
彼はビッグバンドジャズの名門クラブ慶應義塾大学ライト・ミュージック・ソサイェティー出身でもあります。
彼は69年に音楽出版社アルファ・ミュージックを設立。
自身も作曲家として赤い鳥の「翼をください」を作・編曲。
他にもザ・タイガースやトワ・エ・モア等の多数のアーティストに楽曲提供を行っています。
その後77年にアルファ・レコードを設立。プロデューサーとして松任谷由実(当時は荒井由実)をデビューさせています。
さらにティン・パン・アレーを見出し、「音楽プロデュース・チーム」として吉田美奈子、雪村いづみ、小坂 忠、いしだあゆみ等をサポートします。
南佳孝の73年のデビュー作「摩天楼のヒロイン」は、松本隆のプロデュースで、日本のフォーク&ロック専門のレーベル「ショーボート・レーベル」からのリリースです。
ティン・パン・アレーのメンバーも参加しています。
山下達郎、竹内まりやの路線とは方向性は異なりますが、シティポップの先駆けのひとつとして特筆されるアルバムです。
70年代、歌謡曲やフォークミュージックが全国のテレビで流れていた時代。
ニューミュージックが生まれ、名うてのスタジオミュージシャンとともに育っていった背景にあるのは、当時のレコーディング技術の進化でした。
それまでのステレオ録音から多重録音に変わったことで、スタジオミュージシャンの表現の幅も広がったのです。
それまでのように、良い演奏をして録音すればいいという時代から、オーバーダビングなどの録音技術を駆使して音そのものを作りこむ時代に変わりました。
音作りにこだわりを持った職人的なミュージシャンの手による、作りこまれた楽曲の数々が作られていきます。
「キングオブシティポップ」山下達郎と竹内まりや
山下達郎といえば「音の職人」とも称されるほど、音作りに造詣が深いことでも知られています。
70年代はシュガーベイブとしても活動しました。
ソロとして77年に発表したアルバム『SPACY』(スペイシー)は歴史的な傑作として高い評価を受けています。
多重録音を駆使し、一部の曲はほとんど山下1人で楽器を演奏していたり、自身の声による「一人コーラス」など、彼の作風を確立した作品でもあります。
一方、竹内まりやは78年デビュー。当時はアイドル不在の時代と、そのルックスからアイドル歌手的な役割を求められましたが、山下達郎との結婚後は“シンガーソング専業主婦”として作詞作曲を手掛けるようになります。
80年代アイドルとシティポップの関係性
80年代アイドルソングといえば、松田聖子『青い珊瑚礁』に代表されるキラキラしたアイドル歌唱スタイル※が定着した時代でした。
※かわいらしさ優先の歌唱法。
冒頭の「ああ 私の恋は~」の歌い回しやサビ等、声が裏返ったり、発音があいまいでも魅力的ならそのまま活かす歌い方です。
一方で、80年代アイドルの楽曲は筒美京平(なんてったってアイドル)や芹澤廣明(タッチ)、加藤和彦(愛・おぼえていますか)などをはじめとした百戦錬磨のヒットメーカーたちがしのぎを削って作られました。
アイドルという、いわば「旬の素材」を熟練の音楽職人たちが調理して、最高の逸品に仕上げるという何とも贅沢な舞台であったのです。
結果として、アイドルファンは良質なポップスを聴くという好循環が生まれてきます。
この流れの中に、ニューミュージックやはっぴぃえんど、ティン・パン・アレーを経てきたミュージシャンも加わりました。
細野晴臣、松本隆、松任谷由実、松任谷正隆、こちらもそうそうたる作り手がアイドル市場に参入してきました。
そんな中で竹内まりやの作詞作曲による82年の「けんかをやめて」は、河合奈保子に提供され、第24回レコード大賞の金賞を受賞しました。
当時の元気なアイドル像とは一線を画した、しっとりとした作風も印象的です。
松田聖子の83年「瞳はダイアモンド」の作詞は松本隆、作曲家は松任谷由実(クレジット名は呉田軽穂)
同じメンバーによる「小麦色のマーメイド」も落ち着いた雰囲気の楽曲となっています。
このように、当代一流の作曲家たちによってアイドルポップスというジャンルは磨き上げられていきました。
第二次バンドブームでコテンパンに否定されたシティポップ
この流れを分断したのは80年代後半~90年代にかけての第二次バンドブームだったのではないでしょうか。
洗練された聞き心地よりも、荒々しさやストレートなメッセージ性、過激なヴィジュアルなどを前面に打ち出したイメージです。
代表的なものにBOØWYやブルーハーツ、X(現・X Japan)が挙げられます。
バンドブームで志向されたのは「本気」「純粋さ」「まごころ主義」とも言うべき世界観ではないでしょうか。
シティポップの都会的で洗練された在りようとは全く相いれなかった音楽性のように思えます。
誤解をおそれずに言えば、バンドブームは「アマチュアの魂の叫び」だったのに対して、シティポップはどこまでもプロフェッショナルでした。
BOØWYとブルーハーツの数少ない共通点に、アーティストの気合いや「本気」でシャウトするある種の切実さがあります。
バブルという物質至上主義な時代に対しての自身のあり方を含めた緊張感があったようにも思えます。
一方でシティポップには熟練の技と抜群の完成度を誇りながら、時代に対するスタンスはまったりしていて、どこか大人の余裕を感じさせられた印象です。
バンドブームは92年頃には終息していきましたが、続く渋谷系のムーブメントとシティポップは親和性が高く、シティポップ再評価のキッカケともなりました。
90年代渋谷系とシティポップの影響
90年代「渋谷系」は明確な音楽ジャンルというわけではなく、時代の空気のようなものです。
邦楽・洋楽に関わらず70年代のソウルやファンクなどのブラックミュージック・民族音楽も含めて多様な音楽ジャンルを取り込んだ先鋭的なものでした。
アーティストの中には「渋谷系」とカテゴライズされることを嫌がる人もいましたが、90年代中頃の音楽雑誌やラジオ、CDショップのポップなどで溢れかえった言葉です。
代表的なミュージシャンに田島 貴男(ORIGINAL LOVE)、ピチカートファイブ、小沢健二、小山田圭吾(Cornelius)、カジヒデキ、カヒミカリィなどが挙げられます。
誤解をおそれずに言ってしまえば、渋谷系とは「とっつきにくいポップス」であったような気がします。
一聴して聞き心地の良い曲、シンプルでスマートな歌詞だけれども、原典やら引用元などを考えて聞くと非常にややこしい音楽だったと個人的には思っています。
かといって決して難解というわけできないところもポイントではないでしょうか。
97年に結成されたcymbals(シンバルズ)は、ポスト渋谷系とも称されたバンドでした。ボーカルを務めた土岐 麻子は00年代以降ジャズやシティポップ路線で頭角を現していきます。
00年代でのシティポップ再評価の前触れ
00年代になるとヒットチャートでは宇多田ヒカルに代表されるR&B系のシンガーたちの全盛期を迎えます。
その一方で、ヒップホップ、青春パンクも流行するなど、音楽シーンは以前よりまして多様化していきました。
当ブログでは再三にわたって記していることではありますが、インターネットの普及によってファン同士の接点が密になった一方、興味のない層が接点を持たない現象が当たり前となりました。
音楽に限った話ではなく、ファッションや些細な趣味に関することでも分断化が進んでいった時代でもあります。
当然ながら、この一部にシティポップ回帰と再評価につながる動きがありました。
youtubeに代表される動画配信サイトに無許可でアップロードされた過去の楽曲たちがSNSによって拡散されるという現象が起こります。
これらの土壌が、シティポップ再評価と世界的な大流行の下地となりました。
10年代 本格的な80年代リバイバルとヴェイパーウェイヴの影響
ヴェイパーウェイブは米国の音楽家Vektroid(ヴェクトロイド)が、創始者の1人と言われています。
11年に彼女が別名義(Machintosh Plus)で発表したFloral Shoppe(フローラルの専門店)がヴェイパーウェイブのエポックメイキング的な作品となりました。
大まかに言えば、クラブカルチャー、DJ文化の中にある音楽ジャンルという印象です。
80年代の洋楽(ラウンジ・ミュージックやR&B)からのサンプリングによって構築される楽曲で、ループやピッチダウンなどのエフェクトによってテンポを下げて独特の世界観を創出しています。
古いVHSで再生されたような映像と、ショッキングピンクのチェック模様、カセットテープや古いパソコンなどのイメージやアートワークが特徴です。
全体的にはチープでノスタルジックなイメージを喚起させるのではないでしょうか。
消費社会や商業音楽への批評や諷刺(80年代のキラキラ感をすでに失われたモノとして認識する様)ニューエイジやギリシア彫刻などの断片的なイメージを無造作に落とし込む手法は、ネット文化ならではのものではないでしょうか。
製作者の多くが80~90年代の音楽や文化をリアルタイムで経験していないミレニアル世代(80年~00年代生まれ・ネットが普及した環境で育った最初の世代)も特徴です。
このジャンルから発生したフューチャーファンクという音楽様式のサンプリング元としてシティポップが使われたことが世界的な再評価の流れです。
フューチャー・ファンクの文脈から再評価されたシティポップ
フューチャー・ファンクといっても、明確に定義があるわけでもなく、正確に解説するのは困難と思われますのでザックリとした説明にとどめたいと思います。
主に80年代のポップスなどをサンプリングして、ピッチを上げてキラキラ感とある種のチープさを出したり、ハウス系の重いリズムパターンを組み合わせたり。
聞いた感じ空疎な未来感を醸し出したアッパーな楽曲が特徴です。
80年代のアニメキャラをモチーフにしたような色彩感覚も特徴の一つです。
80年代アニメを短くカットし、ループさせた動画を合わせたものが多くあります。
現に、YouTubeなどで公開されているフューチャー・ファンク系の動画のサムネイル画像は80年代アニメの画像が使われていることが多いです。
竹内まりあのプラスティック・ラブ(PLASTIC LOVE)は、その延長線上で再評価されたと言えます。
17年7月にアップロードされた非公式の動画が、SNS上で拡散されて当時2400万回以上の再生数を記録たことがキッカケです。
無数のリミックスなどが公開されたり、海外メディアでも話題になるなど驚異的な大反響を呼びました。
動画のサムネイル画像は、シングルとは関係のないものですが、微笑んでいる竹内まりやの可愛らしい画像も話題になって二次創作も行われました。
まとめ
いかがでしたか。日本の音楽市場に起こったシティポップの流れをザックリと辿りながら、10年代でのヴェイパーウェイブやニュー・ファンクなどの流れを追ってみました。
ただし、この両者には本来、接点はありません。
このふたつの異なる文化をミックスさせたのは、インターネット文化でした。
おそらく日本の音楽が海外でここまで評価された例は、坂本九『上を向いて歩こう』(英題:SUKIYAKI)が、63年のビルボード誌でのシングル週間1位を記録したくらいでしょうか。
一方シティポップを再評価しているメインのリスナーたちは、「音楽オタク」とも呼べるようなコアなユーザー層です。
なので、規模としては単純な比較はできない部分ではありますが、それでも快挙と言っても良い現象ではないでしょうか。